2021年06月
かくれんぼ
日曜日の朝の遅い朝食。
近所の八百屋さんに鶏卵を4個。
「今日は特別だよ」ってお使いを頼まれて出かけた時。
その当時は,鶏卵は高価でバラでないと買えなかったのです。
10円玉と5円玉を数枚,小さな手に握りしめて。
「多分。今日はゆで卵か目玉焼きが食べれる。それも1人マルマル1個」
浮かれながら家を飛び出し,思いっきり走り始めた時。
その振った手の中からするりと前方に飛んで行くものが・・・。
「ズボッズボッズボッ」って言う音とともに。
数枚の10円玉と5円玉が,見事に<ruby><rb>側溝</rb><rp>(</rp><rt>ドブ</rt><rp>)</rt></ruby>に。
それも隣の家の入口の通路の下。
コンクリート製の半円形の管のなかに飛び込んで行ってしまったのです。
まだ舗装道路がめずらしく。
道路わきの<ruby><rb>側溝</rb><rp>(</rp><rt>ドブ</rt><rp>)</rt></ruby>は単なる溝に生活排水を流してるだけのもので,例えばキャッチボールのボールがはまってしまうと,
「ズボッ」って音がしてどろどろの泥の中にボールがすっぽりと隠れてしまい,
見つけ出すのが大変だし,運よく見つけたとしても回収が容易じゃない。
回収に手間取れば手間取る程,文字通り泥沼の世界となるんです。
そんな側溝にです。
涙目になりながら,覗き込んでもわかるはずもなく。
家に戻って,無くしてしまった事をオズオズと説明すると。
「本当に無くしたの?」
烈火のごとく叱られ。
「ドブに落としたのなら落とした場所がわかるでしょ。ドブの底をきちんと探しもしないで。手も服もきれいなままじゃない。」
ポロポロ涙がこぼれ。しゃくりあげながら。
「ごめんなさい」
「もう一度しっかり探してらっしゃい。ご飯食べれないわよ。どうするの!」
隣の家の通路の下にある半円形のコンクリートの管の中に入ってしまった事など・・・それをうまく説明できないまま。
ご飯が食べれなくなる様な,大変な事をしてしまったんだと思いながら,ビショビショにぬれたほっぺたをそででこすり,もう一度探すために家を出たのです。
そして,紛失してしまった場所の通路の上から思いっきり逆さに覗き込んで眺めて見ると。
探しようがないという現実が,胸の奥底から重くのしかかってきたのです。
そして,涙がまぶたからあふれて額の方に流れだすのでした。
今は想像すらできない。
昭和の・・・そんな遠くない昔のお話です。
南北に長い駅。
その駅に面して東側に舗装されていない大きな通り。
その通りは駅に向かって,楕円の長軸方向に切り取った半円の形をしており。
長軸方向の頂点にそれぞれ東側からくる大きな道路が2本つながっています。
そして短軸方向の頂点に駅とその改札口。
そこから南に駅の待合室と駅舎。
そして運送会社の大きな建物。
その駅前大通りと1番線ホームとの間に駅の建物の分だけの空地が,改札口から公衆便所を挟んで北に広がってます。
鉄道会社の私有地なのだと思います。
今では考えられないことですけど,駅構内のホームとその広場を隔てるものは,子供の体がすっぽり隠れてしまうぐらいの大きな垣根だけなのです。
垣根は,隣のホームに渡してある渡り廊下の登り口から,南北に長い1番線ホームのもっと北にある踏切まで続いており。
渡り廊下の登り口から,ホームの中央にあった改札口までは,鉄道会社の保安用の資材やスコップが置かれた倉庫,板張りの策でホームと仕切られた小さな空き地を挟んで公衆便所が並んでいます。
保安用の資材やスコップが置かれた倉庫は,平屋で外壁が木製の板の鎧張り,屋根は黒塗りのトタン屋根で,ホーム側に出入り口があり,駅構内からしか出入りができないつくりです。
同じ並びで,その倉庫からホームと逆方向の2mぐらいの場所に,同じつくりで一回り大きな倉庫があります。
その倉庫は,公衆便所の空き地側に向かって開く格子上の両開きの扉があり,南京錠でいつも施錠されていました。
その格子状の隙間から覗くと,なかには手押し式の朱い色に塗られた消防ポンプのようなものが,少し大きめの台車にのっかっています。
ホーム側の小さい倉庫から北に向かって杉の木が,しゃがんで下に入れば雨宿りできるぐらいの間隔で一列に植えられており,ホームとホームを行き来する渡り廊下よりも高く,風が吹くと先端部だけがざわざわと音をさせて空の上で揺れ動きます。
反対側の道路沿いには低木の木が植えられており,まだ舗装されていない凸凹の道路を走る車の騒音を遮っていました。
その真ん中がぽっかりと長方形の空地になっており,その南側の真ん中に消防ポンプが入っている倉庫の壁がちょうどバックネットのような役目をしていて,子供たちの三角ベースの遊び場として,最高の場所を提供してくれているのでした。
風のないとき,時折通過する蒸気機関車の煙突から勢いよく吐き出されるけむりが,渡り廊下の下を伝ってその空地に流れ込み,その空地は石炭の燃える匂いと石炭の燃えカスや粉じんと煙に包まれるのです。
一番線のホームが途切れるあたりから北側には,この鉄道会社の官舎が線路沿いに踏切付近まで並んでおり。
二本の道に挟まれていました。
一本は,この官舎を挟み込むように駅前大通りと空地の終わるあたりから。
リヤカーがようやっと通れるぐらいの道で,官舎と線路側の垣根の間。
もう一本は東側の道路と駅前大通りの接続部分から。
乗用車がようやっと一台通れるぐらいの道。
そして,2本の道路の間。駅前大通りの付け根に,石炭置場と一緒に東西の東側に石炭置場。
西側に官舎の共同浴場が併設されています。
石炭置場は,官舎側に向かって左側に開く木の扉がついており,いつも半開きの状態で中から石炭があふれ出ていました。
あふれ出ている石炭の上を入口から登っていくと,一番奥の天井付近にはトーチカのような明り取りの横長の窓がついており,天井と石炭の間で腹這いになりながら,大通りを眺めることができました。
服が真っ黒けになるので,それなりの覚悟が必要なのですけど。
共同浴場はの官舎側に焚口あり,右開きの木の扉がついていて,南京錠で施錠できるようになっていました。
その焚口は2畳ほどの空間で,外の地面より一段低く作られており,左奥に石炭釜があります。
焚き場の右側の壁には2段高いところに半間の板張りの引き戸があり,その前に踏み石が置いてあります。
そこを開けると脱衣場に行けるようになっていて,内側からネジ締り錠(木製引き戸用のくるくる回す鍵)がついていました。
今は中から締められていないので自由に出入りできます。
この共同浴場の入り口は線路側にあり,半間半間の引き戸になっていました。
引き戸は上3分の2が。
中央に一番大きな正方形のすりガラスが一枚。そのまわりに長方形のすりガラスが6枚。
桟は木製でできていて,不用意にその桟を持って開けようとすると,とげが刺さりました。
そして,下3分の1が板貼りなんです。
右側の引き戸は南京錠で施錠することげできるようになっていますが,施錠はされていませんでした。
左側の引き戸は,くぎで打ちつけられて開かないようになっています。
この引き戸も内側から利用者が占められるようにねじ締り錠がついていました。
その引き戸を左に開けて入ると下足箱が正面に。
左側の一段高くなったところに木製の板でできた半間の引き戸があり,それを右側に開けると脱衣所があります。
そして正面には脱衣した服を置く横3列縦3列に仕切られた棚。
そして右手には,右に開く半間の入口と同じ引き戸がありそれを開けて浴場に入れるようになっていました。
浴場は脱衣場よりも一段低くタイル貼りになっていて,左側に同時に4人ぐらいは入れそうな長方形のタイル張りの浴槽。
正面と右側の壁に長方形の割れかけた鏡が2枚と3枚。その下にそれぞれ水道の蛇口がついてました。
鏡の少し上まではタイル貼り,そこから上は明り取りの長方形の窓まで板張りです。
床は脱衣所も浴室もススと埃だらけで,天井はなく一般家庭よりは高い屋根の内側の梁がススだらけで露出してます。
このタイル張りの上の部分に足をかけると天井の梁へ登ることができるんです。
そして今使われなくなった浴槽の上には,煩雑に長方形の木の蓋が5枚並べられたままになっていした。
こんな風に,殆ど管理されてない設備などが散らばっていた駅前空地周辺は,子供たちの最高の遊び場だったのです。
ですから,放課後や休日は,子供たちが集まっていろんな遊びに歓声を上げていたのです。
集まった子供たちはみんなで相談し,どんな遊びをするか決めるんです。
「ソフトボールの三角ベース」
「缶けり」
「泥棒・巡査(巡査が泥棒をつかんで10数えると捕まえたことになり,捕まった泥棒は架空の牢屋に入れられる。その泥棒は捕まってない泥棒に触れられると脱走できる)」
「クルマントンテンカン(だるまさんが転んだ)」
「かいせんドン(ケンケン陣取り)」等々。
たくさんあります。
その時は,鬼の決まっているかくれんぼが始まりました。
どういう訳が,じゃんけんで鬼を決めるのではなく,鬼の決まったかくれんぼがはじまったのです。
鬼は消化ポンプの入った大きな方の倉庫の扉の前で100数えます。
鬼が数えはじめると,
みんなは「ワ~」と言う歓声と笑い声?とともに,
蜘蛛の子を散らしたように思い思いの方向に逃げて行く。
数を数え終わり,探し始めるけれども・・・その時は,何かいつもの気配と違いました。
探しても探しても,
杉の木の登れる範囲も,
ホームとの間の垣根も,
真っ黒になりながら石炭置場も,
共同浴場の浴槽や梁の上も,
誰も見つからない。
扉を閉めて閂をおろしてしまえば探しようのない公衆便所は・・・木の扉の便所のカギは木製の棒状のかんぬきだったのです・・・子供たちの間で隠れちゃいけない場所として暗黙の了解がありました。
探す場所が無くなり,恥ずかしかったけれど,開いてるトイレを利用客の怪訝な顔を尻目に一つ一つて探したけれどやはり見つかりません。
いくら探しても見つからない。
空地で途方に暮れてながら,
「どおして?」
<div align="center"><a href="https://livedoor.blogimg.jp/mn_division-message_of_mars/imgs/e/f/ef597cf1.jpg" title="P1015270" target="_blank"><img src="https://livedoor.blogimg.jp/mn_division-message_of_mars/imgs/e/f/ef597cf1-s.jpg" width="600" height="159" border="0" alt="P1015270" hspace="5" class="pict" /></a></div>
冷たい風が頬をなでていき,街灯のない空地内の木々が風に揺れざわざわという音がより一層大きくなったように感じた時。
夕闇が本格的に暗闇に変わり始めたことに気づきました。
駅構内のところどころについている薄暗い電燈が,杉の木の木立の影から風に揺れ見え隠れしています。
その光が一瞬だけ差し込み,暗闇で見えなくなりかけて精一杯見開いた瞳に飛び込んできたとき,
まぶしさに一瞬瞼を閉じてしまいました。
そして瞼を開いたとき,その光が木の陰になっており。
うすぼんやりと見えた周りがとっても深い闇に包まれているのでした。
その時,胸の奥から込み上げるものを忘れてしまいそうなぐらいドキドキしてきたのです。
「もう。帰ろう」
杉木立の陰から見える駅構内のかすかな照明と,
駅前通りをたまに通りすぎる車のヘッドライトを頼りに,
手探りでつまずきながも,
何とか転ばずに空地をぬけると,
改札口から帰宅を急ぐ利用客が溢れてきていました。
そして,その中にのみこまれるようにして歩き出したのです。
近所の八百屋さんに鶏卵を4個。
「今日は特別だよ」ってお使いを頼まれて出かけた時。
その当時は,鶏卵は高価でバラでないと買えなかったのです。
10円玉と5円玉を数枚,小さな手に握りしめて。
「多分。今日はゆで卵か目玉焼きが食べれる。それも1人マルマル1個」
浮かれながら家を飛び出し,思いっきり走り始めた時。
その振った手の中からするりと前方に飛んで行くものが・・・。
「ズボッズボッズボッ」って言う音とともに。
数枚の10円玉と5円玉が,見事に<ruby><rb>側溝</rb><rp>(</rp><rt>ドブ</rt><rp>)</rt></ruby>に。
それも隣の家の入口の通路の下。
コンクリート製の半円形の管のなかに飛び込んで行ってしまったのです。
まだ舗装道路がめずらしく。
道路わきの<ruby><rb>側溝</rb><rp>(</rp><rt>ドブ</rt><rp>)</rt></ruby>は単なる溝に生活排水を流してるだけのもので,例えばキャッチボールのボールがはまってしまうと,
「ズボッ」って音がしてどろどろの泥の中にボールがすっぽりと隠れてしまい,
見つけ出すのが大変だし,運よく見つけたとしても回収が容易じゃない。
回収に手間取れば手間取る程,文字通り泥沼の世界となるんです。
そんな側溝にです。
涙目になりながら,覗き込んでもわかるはずもなく。
家に戻って,無くしてしまった事をオズオズと説明すると。
「本当に無くしたの?」
烈火のごとく叱られ。
「ドブに落としたのなら落とした場所がわかるでしょ。ドブの底をきちんと探しもしないで。手も服もきれいなままじゃない。」
ポロポロ涙がこぼれ。しゃくりあげながら。
「ごめんなさい」
「もう一度しっかり探してらっしゃい。ご飯食べれないわよ。どうするの!」
隣の家の通路の下にある半円形のコンクリートの管の中に入ってしまった事など・・・それをうまく説明できないまま。
ご飯が食べれなくなる様な,大変な事をしてしまったんだと思いながら,ビショビショにぬれたほっぺたをそででこすり,もう一度探すために家を出たのです。
そして,紛失してしまった場所の通路の上から思いっきり逆さに覗き込んで眺めて見ると。
探しようがないという現実が,胸の奥底から重くのしかかってきたのです。
そして,涙がまぶたからあふれて額の方に流れだすのでした。
今は想像すらできない。
昭和の・・・そんな遠くない昔のお話です。
南北に長い駅。
その駅に面して東側に舗装されていない大きな通り。
その通りは駅に向かって,楕円の長軸方向に切り取った半円の形をしており。
長軸方向の頂点にそれぞれ東側からくる大きな道路が2本つながっています。
そして短軸方向の頂点に駅とその改札口。
そこから南に駅の待合室と駅舎。
そして運送会社の大きな建物。
その駅前大通りと1番線ホームとの間に駅の建物の分だけの空地が,改札口から公衆便所を挟んで北に広がってます。
鉄道会社の私有地なのだと思います。
今では考えられないことですけど,駅構内のホームとその広場を隔てるものは,子供の体がすっぽり隠れてしまうぐらいの大きな垣根だけなのです。
垣根は,隣のホームに渡してある渡り廊下の登り口から,南北に長い1番線ホームのもっと北にある踏切まで続いており。
渡り廊下の登り口から,ホームの中央にあった改札口までは,鉄道会社の保安用の資材やスコップが置かれた倉庫,板張りの策でホームと仕切られた小さな空き地を挟んで公衆便所が並んでいます。
保安用の資材やスコップが置かれた倉庫は,平屋で外壁が木製の板の鎧張り,屋根は黒塗りのトタン屋根で,ホーム側に出入り口があり,駅構内からしか出入りができないつくりです。
同じ並びで,その倉庫からホームと逆方向の2mぐらいの場所に,同じつくりで一回り大きな倉庫があります。
その倉庫は,公衆便所の空き地側に向かって開く格子上の両開きの扉があり,南京錠でいつも施錠されていました。
その格子状の隙間から覗くと,なかには手押し式の朱い色に塗られた消防ポンプのようなものが,少し大きめの台車にのっかっています。
ホーム側の小さい倉庫から北に向かって杉の木が,しゃがんで下に入れば雨宿りできるぐらいの間隔で一列に植えられており,ホームとホームを行き来する渡り廊下よりも高く,風が吹くと先端部だけがざわざわと音をさせて空の上で揺れ動きます。
反対側の道路沿いには低木の木が植えられており,まだ舗装されていない凸凹の道路を走る車の騒音を遮っていました。
その真ん中がぽっかりと長方形の空地になっており,その南側の真ん中に消防ポンプが入っている倉庫の壁がちょうどバックネットのような役目をしていて,子供たちの三角ベースの遊び場として,最高の場所を提供してくれているのでした。
風のないとき,時折通過する蒸気機関車の煙突から勢いよく吐き出されるけむりが,渡り廊下の下を伝ってその空地に流れ込み,その空地は石炭の燃える匂いと石炭の燃えカスや粉じんと煙に包まれるのです。
一番線のホームが途切れるあたりから北側には,この鉄道会社の官舎が線路沿いに踏切付近まで並んでおり。
二本の道に挟まれていました。
一本は,この官舎を挟み込むように駅前大通りと空地の終わるあたりから。
リヤカーがようやっと通れるぐらいの道で,官舎と線路側の垣根の間。
もう一本は東側の道路と駅前大通りの接続部分から。
乗用車がようやっと一台通れるぐらいの道。
そして,2本の道路の間。駅前大通りの付け根に,石炭置場と一緒に東西の東側に石炭置場。
西側に官舎の共同浴場が併設されています。
石炭置場は,官舎側に向かって左側に開く木の扉がついており,いつも半開きの状態で中から石炭があふれ出ていました。
あふれ出ている石炭の上を入口から登っていくと,一番奥の天井付近にはトーチカのような明り取りの横長の窓がついており,天井と石炭の間で腹這いになりながら,大通りを眺めることができました。
服が真っ黒けになるので,それなりの覚悟が必要なのですけど。
共同浴場はの官舎側に焚口あり,右開きの木の扉がついていて,南京錠で施錠できるようになっていました。
その焚口は2畳ほどの空間で,外の地面より一段低く作られており,左奥に石炭釜があります。
焚き場の右側の壁には2段高いところに半間の板張りの引き戸があり,その前に踏み石が置いてあります。
そこを開けると脱衣場に行けるようになっていて,内側からネジ締り錠(木製引き戸用のくるくる回す鍵)がついていました。
今は中から締められていないので自由に出入りできます。
この共同浴場の入り口は線路側にあり,半間半間の引き戸になっていました。
引き戸は上3分の2が。
中央に一番大きな正方形のすりガラスが一枚。そのまわりに長方形のすりガラスが6枚。
桟は木製でできていて,不用意にその桟を持って開けようとすると,とげが刺さりました。
そして,下3分の1が板貼りなんです。
右側の引き戸は南京錠で施錠することげできるようになっていますが,施錠はされていませんでした。
左側の引き戸は,くぎで打ちつけられて開かないようになっています。
この引き戸も内側から利用者が占められるようにねじ締り錠がついていました。
その引き戸を左に開けて入ると下足箱が正面に。
左側の一段高くなったところに木製の板でできた半間の引き戸があり,それを右側に開けると脱衣所があります。
そして正面には脱衣した服を置く横3列縦3列に仕切られた棚。
そして右手には,右に開く半間の入口と同じ引き戸がありそれを開けて浴場に入れるようになっていました。
浴場は脱衣場よりも一段低くタイル貼りになっていて,左側に同時に4人ぐらいは入れそうな長方形のタイル張りの浴槽。
正面と右側の壁に長方形の割れかけた鏡が2枚と3枚。その下にそれぞれ水道の蛇口がついてました。
鏡の少し上まではタイル貼り,そこから上は明り取りの長方形の窓まで板張りです。
床は脱衣所も浴室もススと埃だらけで,天井はなく一般家庭よりは高い屋根の内側の梁がススだらけで露出してます。
このタイル張りの上の部分に足をかけると天井の梁へ登ることができるんです。
そして今使われなくなった浴槽の上には,煩雑に長方形の木の蓋が5枚並べられたままになっていした。
こんな風に,殆ど管理されてない設備などが散らばっていた駅前空地周辺は,子供たちの最高の遊び場だったのです。
ですから,放課後や休日は,子供たちが集まっていろんな遊びに歓声を上げていたのです。
集まった子供たちはみんなで相談し,どんな遊びをするか決めるんです。
「ソフトボールの三角ベース」
「缶けり」
「泥棒・巡査(巡査が泥棒をつかんで10数えると捕まえたことになり,捕まった泥棒は架空の牢屋に入れられる。その泥棒は捕まってない泥棒に触れられると脱走できる)」
「クルマントンテンカン(だるまさんが転んだ)」
「かいせんドン(ケンケン陣取り)」等々。
たくさんあります。
その時は,鬼の決まっているかくれんぼが始まりました。
どういう訳が,じゃんけんで鬼を決めるのではなく,鬼の決まったかくれんぼがはじまったのです。
鬼は消化ポンプの入った大きな方の倉庫の扉の前で100数えます。
鬼が数えはじめると,
みんなは「ワ~」と言う歓声と笑い声?とともに,
蜘蛛の子を散らしたように思い思いの方向に逃げて行く。
数を数え終わり,探し始めるけれども・・・その時は,何かいつもの気配と違いました。
探しても探しても,
杉の木の登れる範囲も,
ホームとの間の垣根も,
真っ黒になりながら石炭置場も,
共同浴場の浴槽や梁の上も,
誰も見つからない。
扉を閉めて閂をおろしてしまえば探しようのない公衆便所は・・・木の扉の便所のカギは木製の棒状のかんぬきだったのです・・・子供たちの間で隠れちゃいけない場所として暗黙の了解がありました。
探す場所が無くなり,恥ずかしかったけれど,開いてるトイレを利用客の怪訝な顔を尻目に一つ一つて探したけれどやはり見つかりません。
いくら探しても見つからない。
空地で途方に暮れてながら,
「どおして?」
<div align="center"><a href="https://livedoor.blogimg.jp/mn_division-message_of_mars/imgs/e/f/ef597cf1.jpg" title="P1015270" target="_blank"><img src="https://livedoor.blogimg.jp/mn_division-message_of_mars/imgs/e/f/ef597cf1-s.jpg" width="600" height="159" border="0" alt="P1015270" hspace="5" class="pict" /></a></div>
冷たい風が頬をなでていき,街灯のない空地内の木々が風に揺れざわざわという音がより一層大きくなったように感じた時。
夕闇が本格的に暗闇に変わり始めたことに気づきました。
駅構内のところどころについている薄暗い電燈が,杉の木の木立の影から風に揺れ見え隠れしています。
その光が一瞬だけ差し込み,暗闇で見えなくなりかけて精一杯見開いた瞳に飛び込んできたとき,
まぶしさに一瞬瞼を閉じてしまいました。
そして瞼を開いたとき,その光が木の陰になっており。
うすぼんやりと見えた周りがとっても深い闇に包まれているのでした。
その時,胸の奥から込み上げるものを忘れてしまいそうなぐらいドキドキしてきたのです。
「もう。帰ろう」
杉木立の陰から見える駅構内のかすかな照明と,
駅前通りをたまに通りすぎる車のヘッドライトを頼りに,
手探りでつまずきながも,
何とか転ばずに空地をぬけると,
改札口から帰宅を急ぐ利用客が溢れてきていました。
そして,その中にのみこまれるようにして歩き出したのです。
爪
何年も前から,爪は伸びず固くなったまま。
徐々に艶が失われ黄ばんできている気さえする。
爪の根元から,先に向かって代わり映えのしない縦縞が並んだまま。
爪にできてる横皺のようなようなくびれは,同じ数だけ今も存在する。
泳いだ後,不思議と爪が伸びている。
そんなことも,今はもうない。
永遠にその闇の中に埋没してしまえるように願いながら眠る毎日。
埋没してしまう恐怖と,覚醒している時の恐怖。
そのバランスのなかで,倒錯した思考の遊びに埋没する。
一度許容を超えた入れ物は。
使い物にならなくなってしまうのだろうか。
容器のふちまで満々とたたえた重たい液体を流すことができればよかったのだけれど。
容器を傾け流そうとしたこともある。
その時容器の底が抜けたのか,ひっくりかえってしまったのか。
思考が停止してしまった今では,定かではない。
それは断末魔に似た悪あがきだったのかもしれない。
許容できる量が大きければ大きいほど,重たく圧倒した存在になる。
事に当たる時。
物を新しく作り出す時。
論理の積み上げがあれば必ず目指すものは出来上がるはずだ。
そういう持論をもっていた。
毎日が目指すべきものへの思考と,
そのための積上げた論理の中で彷徨う事で得られる結果だと。
しかし,虚栄に彩られた思考の断片が悪意を注ぎ込む。
毎日が思考の積み重ねの内に終わるのではなく。
朝消化できない量の液体が机の上に置かれ,それを胃袋にに流し込む作業。
毎日。毎日。
休む間もなく。
休む日もなく。
ひたすら彼の胃袋が破裂するのを望んでるように。
朝の机には前日の液体が残っていようがいまいが置かれる液体。
その中に悪意が存在する事に気づかなかった。
それは増えることがあっても,減ることはない。
論理を積み重ねていけば必ず到達点に到着するというプライドゆるさなかった。
だから,
飲みつづけけることを選択しつづけた。
しかし,それは消化不良とともに。
許容を超えた胃袋の拒絶反応による嘔吐となって表れた。
飲み続けることを求める悪意に満ちた自己たちは,比重の重い液体を飲むことを要求するようになる。
下痢と嘔吐を繰り返しながら,いつしか昼と夜の区別なく飲み続け,周りの景色は無機質に変わり,自分以外存在しない景色が広がっていった。
さげすみ・あざけり・罵声は,まるででショウウインドーの外からささやかれているように聞こえるようになる。
いまさらどうすることもできなく・・・黒い血の塊が胸にこみ上げてくるのを感じた時。
<div align="center">地上への衝撃となって終焉のときを迎えるのである。
</div><div align="center">そして永遠の闇に葬られてしまう。</div>
徐々に艶が失われ黄ばんできている気さえする。
爪の根元から,先に向かって代わり映えのしない縦縞が並んだまま。
爪にできてる横皺のようなようなくびれは,同じ数だけ今も存在する。
泳いだ後,不思議と爪が伸びている。
そんなことも,今はもうない。
永遠にその闇の中に埋没してしまえるように願いながら眠る毎日。
埋没してしまう恐怖と,覚醒している時の恐怖。
そのバランスのなかで,倒錯した思考の遊びに埋没する。
一度許容を超えた入れ物は。
使い物にならなくなってしまうのだろうか。
容器のふちまで満々とたたえた重たい液体を流すことができればよかったのだけれど。
容器を傾け流そうとしたこともある。
その時容器の底が抜けたのか,ひっくりかえってしまったのか。
思考が停止してしまった今では,定かではない。
それは断末魔に似た悪あがきだったのかもしれない。
許容できる量が大きければ大きいほど,重たく圧倒した存在になる。
事に当たる時。
物を新しく作り出す時。
論理の積み上げがあれば必ず目指すものは出来上がるはずだ。
そういう持論をもっていた。
毎日が目指すべきものへの思考と,
そのための積上げた論理の中で彷徨う事で得られる結果だと。
しかし,虚栄に彩られた思考の断片が悪意を注ぎ込む。
毎日が思考の積み重ねの内に終わるのではなく。
朝消化できない量の液体が机の上に置かれ,それを胃袋にに流し込む作業。
毎日。毎日。
休む間もなく。
休む日もなく。
ひたすら彼の胃袋が破裂するのを望んでるように。
朝の机には前日の液体が残っていようがいまいが置かれる液体。
その中に悪意が存在する事に気づかなかった。
それは増えることがあっても,減ることはない。
論理を積み重ねていけば必ず到達点に到着するというプライドゆるさなかった。
だから,
飲みつづけけることを選択しつづけた。
しかし,それは消化不良とともに。
許容を超えた胃袋の拒絶反応による嘔吐となって表れた。
飲み続けることを求める悪意に満ちた自己たちは,比重の重い液体を飲むことを要求するようになる。
下痢と嘔吐を繰り返しながら,いつしか昼と夜の区別なく飲み続け,周りの景色は無機質に変わり,自分以外存在しない景色が広がっていった。
さげすみ・あざけり・罵声は,まるででショウウインドーの外からささやかれているように聞こえるようになる。
いまさらどうすることもできなく・・・黒い血の塊が胸にこみ上げてくるのを感じた時。
<div align="center">地上への衝撃となって終焉のときを迎えるのである。
</div><div align="center">そして永遠の闇に葬られてしまう。</div>
手紙
毎年新しい年を迎えます。
人は節目節目で様々な事を考えるために立ち止まり,また新たな気持ちで朝を迎えます。
そんな節目が時間の流れの中に存在するのでしょうね。
Happy New Year
ある日突然の様にやってくる大きな節目。
それは矛盾が飽和した時に生まれる節目だと思うのです。
多くの矛盾が溢れかえりその矛盾が様々な力となってぶつかり合う。
その中に蠢くのはやはり人の業から生まれる欲だという事。
それは,人と人との共存を可能ならしめるためと言う名目を唱えながら多くの人を飲み込んでいく。
経験したことがあるのでしょうか?
同胞に裏切られ売られるときの絶望を。
貧しさから抜け出すための略奪や,
力のある者が行ってきた同胞への裏切り。
地位と力を得るために張り巡らされる策謀。
そして,そのための更なる裏切り。
貧しさから抜け出すための必要なまでの権力に対する執着。
そして,
貧困の中で希望を探し求め苦しくても必死にもがき続けた挙句。
多くの同胞に裏切られ,絶望の中で弛緩してしまった魂。
その魂に流れ込む虚像の世界。
そして埋没。
よりどころとなる虚像は,人々により支持されながら形を変え,実像となりました。
その過程で集まる富は,実像と化した虚像への貢物となり。
それへの同化が崇高な事だという真理を植えこむことに成功したのです。
僕自身の価値観が今の社会のスタンダードだとは思ってはいません。
しかし,今の社会の価値観がスタンダードとも思っていません。
進化し多くのものを取り込みながら形を変えて行く物だと信じています。
だけど,強引に押し付けて来る価値観や,価値観が価値観を噛み砕こうとするとき。
抵抗することになるでしょう。
どんなことがあっても譲れない事があります。
どんなやり方があるかは分かりません。
宇宙の時の流れから見れば,点にも満たない存在ですが,そんな存在でも血も涙も流さず来たわけではありません。
点にも満たない存在ですが,その点にも満たない点も命を育みながら歩ける限り歩いているのです。
そして,点には点なりの心を持ち,点には点の喜びや悲しみを知っています。
そして,生きるために様々な代償を支払いながら歩いています。
そして,代償として支払われる苦悩を他人のせいにはしないでしょう。
したくてもできない事を知っているからです。
そして,それらは歴史が動く瞬間,些細な事として埋没してきました。
これからも同じ繰り返しが続くのかもしれません。
それは今も尚,その各々の記憶に焼かれながら生き続けなければならない事が物語っています。
記憶に焼かれないために,大きく叫ぶことを必死で抑制し,手をあげない様にする。
例え振り上げたとしても,思考が停止していなければ,振り上げた手のその上に広がる紺碧の空を見ることが出来るでしょうし。
振り上げた手を振り下ろしてしまえば,鏡の中の自分自身へなのだと痛いほど判っているから。
だから,多くの血を利用した社会に対する報復は許せないのです。
争いは・・・・
資源,宗教,イデオロギーから掘り起こされる利権が発端となり,独占の為に差別と言う篩にかけられる。
その利権をめぐって,そして篩の有無をめぐって,あるいは篩の目の細かさをめぐって起こるのでしょうね。
そして,いつも利用されるのは,憎しみを植え付けられ,怒りを増幅させられながら,楯とされる多くの命です。
虚像を実像と信じる者。
虚像を実像と見誤る者。
誰かが作り出した虚像を実像と信じ,そのなかに真理を探そうとする者。
虚像を崇拝しながら都合のいいように変異を繰り返し,都合の悪いものは排除していく。
この世界に真理を物語る実像があるか解らないのに・・・
だから虚像と知りつつも,その虚像にしがみつくのかもしれないですね。
恐ろしさの為に。
永遠にあこがれ。
永遠の炎に身を投じ。
その炎に焼き尽くされても尚信じて止まない。
それが愚かな事?なのかそうでない事なのかは解らない。
富を生み出すもの。
欲望を充足してくれるものに群れ集う。
1000年先,10000年先まで生き残れる保証などない,その恐れからなのでしょうか。
虚像と実像の境界線?
そんなものがあるのだろうか?
かかわりってなんだろうって思いませんか?
不思議なつながりが,かかわりの中にあります。
1人では何もできない事は誰もが知っています。
しかし,1人を支える多くの人の力があるのを日常においては忘れて過ごしている。
人とはそういうものだと思います。
僕達が使ってる便利な物。
その原理を理解しながら使ってる人はいませんから。
多くのテクノロジーが背景にあって成り立つ社会。
多くの人の支えがあって成り立つ社会。
今自分が立ってる背景には,多くの人が歩みながら転びながら培ってきた知恵があります。
だから今のこの現実があります。
その見えないかかわりが社会を支えているのでしょうね。
誰がどのようにかかわってるかは意識せずに過ごすことが出来ます。
トラブルが起きた時,そのかかわりのある人たちの顔を見ることが出来ます。
それが社会における責任であり,今の社会が成り立ってる根本ですね。
何かがあった時,顔が見えない社会があるとしたらそれは,一人一人の知恵が反映されない社会。
つまり,独善的な者達が組織し,自分達に都合のいい価値観を押し付ける社会という事になるのじゃないかな。
そう思いませんか。
人の深層の中には,差別し自分が優位に立ちたいという,どうしようもない自分本位の意識があると思いませんか。
その強弱が人の性格を形成しているのかもしれないとも。
ですから,ちょっとした経験を積んだだけで傲慢になる人もいるのだと考えられるわけです。
精神的骨格を持ち合わせない人が,分不相応の地位を手にしたとき。
その社会が不幸になるときです。
寄り添いたがっては争う。
そんな矛盾に満ちた顔が隠れている。
自分のために寄り添い。
自分のために争う。
それに触れた時伝染する。
そして何も思わぬ。
何も考えぬ様になってしまうのではないでしょうか。
そして時間が止まったまま前に進めなくなる。
過去の記憶に縛られ,崩れていく心の一瞬を永遠に繰り返しながら。
僕の中のもう一人の僕。
君の中のもう一人の僕。
問いかけるだけで答えのない世界。
社会をつくるためには,人がそして言葉が必要です。
そして相手となる多くの自分が社会を作る事も,そして蝕んでいく根源と言う事も知っている。
だから,想像力を働かせ考える。
その各々の自分という意識が問いかけ続けることで,明日への希望が見えて来るとも思うのです。
認識する人がいて,その者が存在する。
意識されることが無ければ,社会と言う中の虚無となる。
その虚無の中での叫びが周りの人を不幸にすることもある。
自分が生きてることで周りが不幸になる。
だからと言って,物語を終らせることができない。
終らせたい・・・だけど生きる。
生き続ければ,変わることができるかもしれないから。
そして虚像の世界へ埋没する。
そこに多くの哀しい叫びがある。
僕の中にいる僕は誰?
自分自身と対峙する相手の中にいる自分は誰?
僕の体内に僕の意識が独立して存在してるのでしょうか?
無意識に僕の中の僕を作り出してしまい,僕の中に別な僕がいるのかもしれないです。
自分の意識のない時間。
その僕が僕の意識を支配する時間がないと言えるのでしょうか?
意識を支配する二つの意識。
いや,それ以上の意識がないと断定できるのでしょうか?
意識の混濁と意識のせめぎ合いによる自我の崩壊。
その先にも虚像へ誘う苦しさがあります。
なにが真実なのか?
真実の中の真理は?
人の真理は,自我の欲するところの欲望の充足なのでしょうか?
心があるから苦悩するのはよくわかっています。
だけど絶対失いたくはありませんよね。
じゃなぜに心があるのでしょうか?
生きる事そのことが崩壊への誘いなのでしょうか。
人の生とは業が生み出す欲に焼かれる苦悩の繰り返しなのでしょうか。
それは業故に抗う事が出来るのでしょうか。
手は汚れている?
命の紡ぎを奪いながら,共生と言う名のもとに生きてる以上。
そして同胞の命の紡ぎさえも奪いながら生きている人達がいる以上。
汚れた記憶と向き合い,汚れた記憶に焼かれようとも,記憶の呪縛から解き放たれるためには,汚れた手のままで生きるしかない事を認識しなければいけないのでしょう。
時折手を洗い流し,業による欲の為ににじみ出てくる物がどんなものなのかを。
そして,空に手をかざしにじみ出てくる先を探してみる事も必要なのかもしれませんね。
その矛盾から目をそらすことなく,矛盾を生み出してきたものの根源をです。
独りよがりな想像ではなく,模倣ではない創造の先にあるもの。
それを見いだせればそれは進化し続ける為のプログラムになると信じたいですね。
人は節目節目で様々な事を考えるために立ち止まり,また新たな気持ちで朝を迎えます。
そんな節目が時間の流れの中に存在するのでしょうね。
Happy New Year
ある日突然の様にやってくる大きな節目。
それは矛盾が飽和した時に生まれる節目だと思うのです。
多くの矛盾が溢れかえりその矛盾が様々な力となってぶつかり合う。
その中に蠢くのはやはり人の業から生まれる欲だという事。
それは,人と人との共存を可能ならしめるためと言う名目を唱えながら多くの人を飲み込んでいく。
経験したことがあるのでしょうか?
同胞に裏切られ売られるときの絶望を。
貧しさから抜け出すための略奪や,
力のある者が行ってきた同胞への裏切り。
地位と力を得るために張り巡らされる策謀。
そして,そのための更なる裏切り。
貧しさから抜け出すための必要なまでの権力に対する執着。
そして,
貧困の中で希望を探し求め苦しくても必死にもがき続けた挙句。
多くの同胞に裏切られ,絶望の中で弛緩してしまった魂。
その魂に流れ込む虚像の世界。
そして埋没。
よりどころとなる虚像は,人々により支持されながら形を変え,実像となりました。
その過程で集まる富は,実像と化した虚像への貢物となり。
それへの同化が崇高な事だという真理を植えこむことに成功したのです。
僕自身の価値観が今の社会のスタンダードだとは思ってはいません。
しかし,今の社会の価値観がスタンダードとも思っていません。
進化し多くのものを取り込みながら形を変えて行く物だと信じています。
だけど,強引に押し付けて来る価値観や,価値観が価値観を噛み砕こうとするとき。
抵抗することになるでしょう。
どんなことがあっても譲れない事があります。
どんなやり方があるかは分かりません。
宇宙の時の流れから見れば,点にも満たない存在ですが,そんな存在でも血も涙も流さず来たわけではありません。
点にも満たない存在ですが,その点にも満たない点も命を育みながら歩ける限り歩いているのです。
そして,点には点なりの心を持ち,点には点の喜びや悲しみを知っています。
そして,生きるために様々な代償を支払いながら歩いています。
そして,代償として支払われる苦悩を他人のせいにはしないでしょう。
したくてもできない事を知っているからです。
そして,それらは歴史が動く瞬間,些細な事として埋没してきました。
これからも同じ繰り返しが続くのかもしれません。
それは今も尚,その各々の記憶に焼かれながら生き続けなければならない事が物語っています。
記憶に焼かれないために,大きく叫ぶことを必死で抑制し,手をあげない様にする。
例え振り上げたとしても,思考が停止していなければ,振り上げた手のその上に広がる紺碧の空を見ることが出来るでしょうし。
振り上げた手を振り下ろしてしまえば,鏡の中の自分自身へなのだと痛いほど判っているから。
だから,多くの血を利用した社会に対する報復は許せないのです。
争いは・・・・
資源,宗教,イデオロギーから掘り起こされる利権が発端となり,独占の為に差別と言う篩にかけられる。
その利権をめぐって,そして篩の有無をめぐって,あるいは篩の目の細かさをめぐって起こるのでしょうね。
そして,いつも利用されるのは,憎しみを植え付けられ,怒りを増幅させられながら,楯とされる多くの命です。
虚像を実像と信じる者。
虚像を実像と見誤る者。
誰かが作り出した虚像を実像と信じ,そのなかに真理を探そうとする者。
虚像を崇拝しながら都合のいいように変異を繰り返し,都合の悪いものは排除していく。
この世界に真理を物語る実像があるか解らないのに・・・
だから虚像と知りつつも,その虚像にしがみつくのかもしれないですね。
恐ろしさの為に。
永遠にあこがれ。
永遠の炎に身を投じ。
その炎に焼き尽くされても尚信じて止まない。
それが愚かな事?なのかそうでない事なのかは解らない。
富を生み出すもの。
欲望を充足してくれるものに群れ集う。
1000年先,10000年先まで生き残れる保証などない,その恐れからなのでしょうか。
虚像と実像の境界線?
そんなものがあるのだろうか?
かかわりってなんだろうって思いませんか?
不思議なつながりが,かかわりの中にあります。
1人では何もできない事は誰もが知っています。
しかし,1人を支える多くの人の力があるのを日常においては忘れて過ごしている。
人とはそういうものだと思います。
僕達が使ってる便利な物。
その原理を理解しながら使ってる人はいませんから。
多くのテクノロジーが背景にあって成り立つ社会。
多くの人の支えがあって成り立つ社会。
今自分が立ってる背景には,多くの人が歩みながら転びながら培ってきた知恵があります。
だから今のこの現実があります。
その見えないかかわりが社会を支えているのでしょうね。
誰がどのようにかかわってるかは意識せずに過ごすことが出来ます。
トラブルが起きた時,そのかかわりのある人たちの顔を見ることが出来ます。
それが社会における責任であり,今の社会が成り立ってる根本ですね。
何かがあった時,顔が見えない社会があるとしたらそれは,一人一人の知恵が反映されない社会。
つまり,独善的な者達が組織し,自分達に都合のいい価値観を押し付ける社会という事になるのじゃないかな。
そう思いませんか。
人の深層の中には,差別し自分が優位に立ちたいという,どうしようもない自分本位の意識があると思いませんか。
その強弱が人の性格を形成しているのかもしれないとも。
ですから,ちょっとした経験を積んだだけで傲慢になる人もいるのだと考えられるわけです。
精神的骨格を持ち合わせない人が,分不相応の地位を手にしたとき。
その社会が不幸になるときです。
寄り添いたがっては争う。
そんな矛盾に満ちた顔が隠れている。
自分のために寄り添い。
自分のために争う。
それに触れた時伝染する。
そして何も思わぬ。
何も考えぬ様になってしまうのではないでしょうか。
そして時間が止まったまま前に進めなくなる。
過去の記憶に縛られ,崩れていく心の一瞬を永遠に繰り返しながら。
僕の中のもう一人の僕。
君の中のもう一人の僕。
問いかけるだけで答えのない世界。
社会をつくるためには,人がそして言葉が必要です。
そして相手となる多くの自分が社会を作る事も,そして蝕んでいく根源と言う事も知っている。
だから,想像力を働かせ考える。
その各々の自分という意識が問いかけ続けることで,明日への希望が見えて来るとも思うのです。
認識する人がいて,その者が存在する。
意識されることが無ければ,社会と言う中の虚無となる。
その虚無の中での叫びが周りの人を不幸にすることもある。
自分が生きてることで周りが不幸になる。
だからと言って,物語を終らせることができない。
終らせたい・・・だけど生きる。
生き続ければ,変わることができるかもしれないから。
そして虚像の世界へ埋没する。
そこに多くの哀しい叫びがある。
僕の中にいる僕は誰?
自分自身と対峙する相手の中にいる自分は誰?
僕の体内に僕の意識が独立して存在してるのでしょうか?
無意識に僕の中の僕を作り出してしまい,僕の中に別な僕がいるのかもしれないです。
自分の意識のない時間。
その僕が僕の意識を支配する時間がないと言えるのでしょうか?
意識を支配する二つの意識。
いや,それ以上の意識がないと断定できるのでしょうか?
意識の混濁と意識のせめぎ合いによる自我の崩壊。
その先にも虚像へ誘う苦しさがあります。
なにが真実なのか?
真実の中の真理は?
人の真理は,自我の欲するところの欲望の充足なのでしょうか?
心があるから苦悩するのはよくわかっています。
だけど絶対失いたくはありませんよね。
じゃなぜに心があるのでしょうか?
生きる事そのことが崩壊への誘いなのでしょうか。
人の生とは業が生み出す欲に焼かれる苦悩の繰り返しなのでしょうか。
それは業故に抗う事が出来るのでしょうか。
手は汚れている?
命の紡ぎを奪いながら,共生と言う名のもとに生きてる以上。
そして同胞の命の紡ぎさえも奪いながら生きている人達がいる以上。
汚れた記憶と向き合い,汚れた記憶に焼かれようとも,記憶の呪縛から解き放たれるためには,汚れた手のままで生きるしかない事を認識しなければいけないのでしょう。
時折手を洗い流し,業による欲の為ににじみ出てくる物がどんなものなのかを。
そして,空に手をかざしにじみ出てくる先を探してみる事も必要なのかもしれませんね。
その矛盾から目をそらすことなく,矛盾を生み出してきたものの根源をです。
独りよがりな想像ではなく,模倣ではない創造の先にあるもの。
それを見いだせればそれは進化し続ける為のプログラムになると信じたいですね。