毎年新しい年を迎えます。
人は節目節目で様々な事を考えるために立ち止まり,また新たな気持ちで朝を迎えます。
そんな節目が時間の流れの中に存在するのでしょうね。
Happy New Year
ある日突然の様にやってくる大きな節目。
それは矛盾が飽和した時に生まれる節目だと思うのです。
多くの矛盾が溢れかえりその矛盾が様々な力となってぶつかり合う。
その中に蠢くのはやはり人の業から生まれる欲だという事。
それは,人と人との共存を可能ならしめるためと言う名目を唱えながら多くの人を飲み込んでいく。
経験したことがあるのでしょうか?
同胞に裏切られ売られるときの絶望を。
貧しさから抜け出すための略奪や,
力のある者が行ってきた同胞への裏切り。
地位と力を得るために張り巡らされる策謀。
そして,そのための更なる裏切り。
貧しさから抜け出すための必要なまでの権力に対する執着。
そして,
貧困の中で希望を探し求め苦しくても必死にもがき続けた挙句。
多くの同胞に裏切られ,絶望の中で弛緩してしまった魂。
その魂に流れ込む虚像の世界。
そして埋没。
よりどころとなる虚像は,人々により支持されながら形を変え,実像となりました。
その過程で集まる富は,実像と化した虚像への貢物となり。
それへの同化が崇高な事だという真理を植えこむことに成功したのです。
僕自身の価値観が今の社会のスタンダードだとは思ってはいません。
しかし,今の社会の価値観がスタンダードとも思っていません。
進化し多くのものを取り込みながら形を変えて行く物だと信じています。
だけど,強引に押し付けて来る価値観や,価値観が価値観を噛み砕こうとするとき。
抵抗することになるでしょう。
どんなことがあっても譲れない事があります。
どんなやり方があるかは分かりません。
宇宙の時の流れから見れば,点にも満たない存在ですが,そんな存在でも血も涙も流さず来たわけではありません。
点にも満たない存在ですが,その点にも満たない点も命を育みながら歩ける限り歩いているのです。
そして,点には点なりの心を持ち,点には点の喜びや悲しみを知っています。
そして,生きるために様々な代償を支払いながら歩いています。
そして,代償として支払われる苦悩を他人のせいにはしないでしょう。
したくてもできない事を知っているからです。
そして,それらは歴史が動く瞬間,些細な事として埋没してきました。
これからも同じ繰り返しが続くのかもしれません。
それは今も尚,その各々の記憶に焼かれながら生き続けなければならない事が物語っています。
記憶に焼かれないために,大きく叫ぶことを必死で抑制し,手をあげない様にする。
例え振り上げたとしても,思考が停止していなければ,振り上げた手のその上に広がる紺碧の空を見ることが出来るでしょうし。
振り上げた手を振り下ろしてしまえば,鏡の中の自分自身へなのだと痛いほど判っているから。
だから,多くの血を利用した社会に対する報復は許せないのです。
争いは・・・・
資源,宗教,イデオロギーから掘り起こされる利権が発端となり,独占の為に差別と言う篩にかけられる。
その利権をめぐって,そして篩の有無をめぐって,あるいは篩の目の細かさをめぐって起こるのでしょうね。
そして,いつも利用されるのは,憎しみを植え付けられ,怒りを増幅させられながら,楯とされる多くの命です。
虚像を実像と信じる者。
虚像を実像と見誤る者。
誰かが作り出した虚像を実像と信じ,そのなかに真理を探そうとする者。
虚像を崇拝しながら都合のいいように変異を繰り返し,都合の悪いものは排除していく。
この世界に真理を物語る実像があるか解らないのに・・・
だから虚像と知りつつも,その虚像にしがみつくのかもしれないですね。
恐ろしさの為に。
永遠にあこがれ。
永遠の炎に身を投じ。
その炎に焼き尽くされても尚信じて止まない。
それが愚かな事?なのかそうでない事なのかは解らない。
富を生み出すもの。
欲望を充足してくれるものに群れ集う。
1000年先,10000年先まで生き残れる保証などない,その恐れからなのでしょうか。
虚像と実像の境界線?
そんなものがあるのだろうか?
かかわりってなんだろうって思いませんか?
不思議なつながりが,かかわりの中にあります。
1人では何もできない事は誰もが知っています。
しかし,1人を支える多くの人の力があるのを日常においては忘れて過ごしている。
人とはそういうものだと思います。
僕達が使ってる便利な物。
その原理を理解しながら使ってる人はいませんから。
多くのテクノロジーが背景にあって成り立つ社会。
多くの人の支えがあって成り立つ社会。
今自分が立ってる背景には,多くの人が歩みながら転びながら培ってきた知恵があります。
だから今のこの現実があります。
その見えないかかわりが社会を支えているのでしょうね。
誰がどのようにかかわってるかは意識せずに過ごすことが出来ます。
トラブルが起きた時,そのかかわりのある人たちの顔を見ることが出来ます。
それが社会における責任であり,今の社会が成り立ってる根本ですね。
何かがあった時,顔が見えない社会があるとしたらそれは,一人一人の知恵が反映されない社会。
つまり,独善的な者達が組織し,自分達に都合のいい価値観を押し付ける社会という事になるのじゃないかな。
そう思いませんか。
人の深層の中には,差別し自分が優位に立ちたいという,どうしようもない自分本位の意識があると思いませんか。
その強弱が人の性格を形成しているのかもしれないとも。
ですから,ちょっとした経験を積んだだけで傲慢になる人もいるのだと考えられるわけです。
精神的骨格を持ち合わせない人が,分不相応の地位を手にしたとき。
その社会が不幸になるときです。
寄り添いたがっては争う。
そんな矛盾に満ちた顔が隠れている。
自分のために寄り添い。
自分のために争う。
それに触れた時伝染する。
そして何も思わぬ。
何も考えぬ様になってしまうのではないでしょうか。
そして時間が止まったまま前に進めなくなる。
過去の記憶に縛られ,崩れていく心の一瞬を永遠に繰り返しながら。
僕の中のもう一人の僕。
君の中のもう一人の僕。
問いかけるだけで答えのない世界。
社会をつくるためには,人がそして言葉が必要です。
そして相手となる多くの自分が社会を作る事も,そして蝕んでいく根源と言う事も知っている。
だから,想像力を働かせ考える。
その各々の自分という意識が問いかけ続けることで,明日への希望が見えて来るとも思うのです。
認識する人がいて,その者が存在する。
意識されることが無ければ,社会と言う中の虚無となる。
その虚無の中での叫びが周りの人を不幸にすることもある。
自分が生きてることで周りが不幸になる。
だからと言って,物語を終らせることができない。
終らせたい・・・だけど生きる。
生き続ければ,変わることができるかもしれないから。
そして虚像の世界へ埋没する。
そこに多くの哀しい叫びがある。
僕の中にいる僕は誰?
自分自身と対峙する相手の中にいる自分は誰?
僕の体内に僕の意識が独立して存在してるのでしょうか?
無意識に僕の中の僕を作り出してしまい,僕の中に別な僕がいるのかもしれないです。
自分の意識のない時間。
その僕が僕の意識を支配する時間がないと言えるのでしょうか?
意識を支配する二つの意識。
いや,それ以上の意識がないと断定できるのでしょうか?
意識の混濁と意識のせめぎ合いによる自我の崩壊。
その先にも虚像へ誘う苦しさがあります。
なにが真実なのか?
真実の中の真理は?
人の真理は,自我の欲するところの欲望の充足なのでしょうか?
心があるから苦悩するのはよくわかっています。
だけど絶対失いたくはありませんよね。
じゃなぜに心があるのでしょうか?
生きる事そのことが崩壊への誘いなのでしょうか。
人の生とは業が生み出す欲に焼かれる苦悩の繰り返しなのでしょうか。
それは業故に抗う事が出来るのでしょうか。
手は汚れている?
命の紡ぎを奪いながら,共生と言う名のもとに生きてる以上。
そして同胞の命の紡ぎさえも奪いながら生きている人達がいる以上。
汚れた記憶と向き合い,汚れた記憶に焼かれようとも,記憶の呪縛から解き放たれるためには,汚れた手のままで生きるしかない事を認識しなければいけないのでしょう。
時折手を洗い流し,業による欲の為ににじみ出てくる物がどんなものなのかを。
そして,空に手をかざしにじみ出てくる先を探してみる事も必要なのかもしれませんね。
その矛盾から目をそらすことなく,矛盾を生み出してきたものの根源をです。
独りよがりな想像ではなく,模倣ではない創造の先にあるもの。
それを見いだせればそれは進化し続ける為のプログラムになると信じたいですね。
人は節目節目で様々な事を考えるために立ち止まり,また新たな気持ちで朝を迎えます。
そんな節目が時間の流れの中に存在するのでしょうね。
Happy New Year
ある日突然の様にやってくる大きな節目。
それは矛盾が飽和した時に生まれる節目だと思うのです。
多くの矛盾が溢れかえりその矛盾が様々な力となってぶつかり合う。
その中に蠢くのはやはり人の業から生まれる欲だという事。
それは,人と人との共存を可能ならしめるためと言う名目を唱えながら多くの人を飲み込んでいく。
経験したことがあるのでしょうか?
同胞に裏切られ売られるときの絶望を。
貧しさから抜け出すための略奪や,
力のある者が行ってきた同胞への裏切り。
地位と力を得るために張り巡らされる策謀。
そして,そのための更なる裏切り。
貧しさから抜け出すための必要なまでの権力に対する執着。
そして,
貧困の中で希望を探し求め苦しくても必死にもがき続けた挙句。
多くの同胞に裏切られ,絶望の中で弛緩してしまった魂。
その魂に流れ込む虚像の世界。
そして埋没。
よりどころとなる虚像は,人々により支持されながら形を変え,実像となりました。
その過程で集まる富は,実像と化した虚像への貢物となり。
それへの同化が崇高な事だという真理を植えこむことに成功したのです。
僕自身の価値観が今の社会のスタンダードだとは思ってはいません。
しかし,今の社会の価値観がスタンダードとも思っていません。
進化し多くのものを取り込みながら形を変えて行く物だと信じています。
だけど,強引に押し付けて来る価値観や,価値観が価値観を噛み砕こうとするとき。
抵抗することになるでしょう。
どんなことがあっても譲れない事があります。
どんなやり方があるかは分かりません。
宇宙の時の流れから見れば,点にも満たない存在ですが,そんな存在でも血も涙も流さず来たわけではありません。
点にも満たない存在ですが,その点にも満たない点も命を育みながら歩ける限り歩いているのです。
そして,点には点なりの心を持ち,点には点の喜びや悲しみを知っています。
そして,生きるために様々な代償を支払いながら歩いています。
そして,代償として支払われる苦悩を他人のせいにはしないでしょう。
したくてもできない事を知っているからです。
そして,それらは歴史が動く瞬間,些細な事として埋没してきました。
これからも同じ繰り返しが続くのかもしれません。
それは今も尚,その各々の記憶に焼かれながら生き続けなければならない事が物語っています。
記憶に焼かれないために,大きく叫ぶことを必死で抑制し,手をあげない様にする。
例え振り上げたとしても,思考が停止していなければ,振り上げた手のその上に広がる紺碧の空を見ることが出来るでしょうし。
振り上げた手を振り下ろしてしまえば,鏡の中の自分自身へなのだと痛いほど判っているから。
だから,多くの血を利用した社会に対する報復は許せないのです。
争いは・・・・
資源,宗教,イデオロギーから掘り起こされる利権が発端となり,独占の為に差別と言う篩にかけられる。
その利権をめぐって,そして篩の有無をめぐって,あるいは篩の目の細かさをめぐって起こるのでしょうね。
そして,いつも利用されるのは,憎しみを植え付けられ,怒りを増幅させられながら,楯とされる多くの命です。
虚像を実像と信じる者。
虚像を実像と見誤る者。
誰かが作り出した虚像を実像と信じ,そのなかに真理を探そうとする者。
虚像を崇拝しながら都合のいいように変異を繰り返し,都合の悪いものは排除していく。
この世界に真理を物語る実像があるか解らないのに・・・
だから虚像と知りつつも,その虚像にしがみつくのかもしれないですね。
恐ろしさの為に。
永遠にあこがれ。
永遠の炎に身を投じ。
その炎に焼き尽くされても尚信じて止まない。
それが愚かな事?なのかそうでない事なのかは解らない。
富を生み出すもの。
欲望を充足してくれるものに群れ集う。
1000年先,10000年先まで生き残れる保証などない,その恐れからなのでしょうか。
虚像と実像の境界線?
そんなものがあるのだろうか?
かかわりってなんだろうって思いませんか?
不思議なつながりが,かかわりの中にあります。
1人では何もできない事は誰もが知っています。
しかし,1人を支える多くの人の力があるのを日常においては忘れて過ごしている。
人とはそういうものだと思います。
僕達が使ってる便利な物。
その原理を理解しながら使ってる人はいませんから。
多くのテクノロジーが背景にあって成り立つ社会。
多くの人の支えがあって成り立つ社会。
今自分が立ってる背景には,多くの人が歩みながら転びながら培ってきた知恵があります。
だから今のこの現実があります。
その見えないかかわりが社会を支えているのでしょうね。
誰がどのようにかかわってるかは意識せずに過ごすことが出来ます。
トラブルが起きた時,そのかかわりのある人たちの顔を見ることが出来ます。
それが社会における責任であり,今の社会が成り立ってる根本ですね。
何かがあった時,顔が見えない社会があるとしたらそれは,一人一人の知恵が反映されない社会。
つまり,独善的な者達が組織し,自分達に都合のいい価値観を押し付ける社会という事になるのじゃないかな。
そう思いませんか。
人の深層の中には,差別し自分が優位に立ちたいという,どうしようもない自分本位の意識があると思いませんか。
その強弱が人の性格を形成しているのかもしれないとも。
ですから,ちょっとした経験を積んだだけで傲慢になる人もいるのだと考えられるわけです。
精神的骨格を持ち合わせない人が,分不相応の地位を手にしたとき。
その社会が不幸になるときです。
寄り添いたがっては争う。
そんな矛盾に満ちた顔が隠れている。
自分のために寄り添い。
自分のために争う。
それに触れた時伝染する。
そして何も思わぬ。
何も考えぬ様になってしまうのではないでしょうか。
そして時間が止まったまま前に進めなくなる。
過去の記憶に縛られ,崩れていく心の一瞬を永遠に繰り返しながら。
僕の中のもう一人の僕。
君の中のもう一人の僕。
問いかけるだけで答えのない世界。
社会をつくるためには,人がそして言葉が必要です。
そして相手となる多くの自分が社会を作る事も,そして蝕んでいく根源と言う事も知っている。
だから,想像力を働かせ考える。
その各々の自分という意識が問いかけ続けることで,明日への希望が見えて来るとも思うのです。
認識する人がいて,その者が存在する。
意識されることが無ければ,社会と言う中の虚無となる。
その虚無の中での叫びが周りの人を不幸にすることもある。
自分が生きてることで周りが不幸になる。
だからと言って,物語を終らせることができない。
終らせたい・・・だけど生きる。
生き続ければ,変わることができるかもしれないから。
そして虚像の世界へ埋没する。
そこに多くの哀しい叫びがある。
僕の中にいる僕は誰?
自分自身と対峙する相手の中にいる自分は誰?
僕の体内に僕の意識が独立して存在してるのでしょうか?
無意識に僕の中の僕を作り出してしまい,僕の中に別な僕がいるのかもしれないです。
自分の意識のない時間。
その僕が僕の意識を支配する時間がないと言えるのでしょうか?
意識を支配する二つの意識。
いや,それ以上の意識がないと断定できるのでしょうか?
意識の混濁と意識のせめぎ合いによる自我の崩壊。
その先にも虚像へ誘う苦しさがあります。
なにが真実なのか?
真実の中の真理は?
人の真理は,自我の欲するところの欲望の充足なのでしょうか?
心があるから苦悩するのはよくわかっています。
だけど絶対失いたくはありませんよね。
じゃなぜに心があるのでしょうか?
生きる事そのことが崩壊への誘いなのでしょうか。
人の生とは業が生み出す欲に焼かれる苦悩の繰り返しなのでしょうか。
それは業故に抗う事が出来るのでしょうか。
手は汚れている?
命の紡ぎを奪いながら,共生と言う名のもとに生きてる以上。
そして同胞の命の紡ぎさえも奪いながら生きている人達がいる以上。
汚れた記憶と向き合い,汚れた記憶に焼かれようとも,記憶の呪縛から解き放たれるためには,汚れた手のままで生きるしかない事を認識しなければいけないのでしょう。
時折手を洗い流し,業による欲の為ににじみ出てくる物がどんなものなのかを。
そして,空に手をかざしにじみ出てくる先を探してみる事も必要なのかもしれませんね。
その矛盾から目をそらすことなく,矛盾を生み出してきたものの根源をです。
独りよがりな想像ではなく,模倣ではない創造の先にあるもの。
それを見いだせればそれは進化し続ける為のプログラムになると信じたいですね。
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